マージャンを始めた頃の思い出            

                                                                                                                                           2015年6月     金子 謙二

  65才でリタイヤして15年、今や傘寿を迎えました。受験に失敗し予備校へ通っている時、当時の娯楽はマージャン・酒・喫茶店・パチンコ(当時はオール15の玉が出る) etcぐらいしか無かったのです。

  その後4年間の学生時代は、神田の駿河台・神保町の雀荘 喫茶店で時間を費してました。

  乳業メーカーに入社してから営業関係にたづさわり65まで42年間、宇都宮の8年間を始め7回の転勤を経験し行く先々で週に2~3回位マージャンをやってました。仕事で、うまくいかなかった時のストレスの解消として役に立ちました。

  今回の「ふれあい会」を、いんざい新聞で知り、15年ぶりに参加しました。なかなか組織がしっかりして居り感謝してます。ただ15年間の空白期間があり記憶力がどうか心配でしたが?皆さんも点数が解らないから参加しないと云う人も(賭けマージャンではない)親切に指導してくれますので老化防止や時間つぶしに、どんどん参加すべきです。


マージャンを始めた頃の思い出  

          

                                                                   2015年7月

 松村 英樹

         

  私が麻雀と出会ったのは高三の時でした。その頃は、麻雀が流行っていて学生たちは雀荘に入りびたっているのは当たり前でした。私はルールも知らなかったので友達が卓を囲んでいる側でただ見ているだけでしたが、何回か見ているうちに少し分かる様になりました。しかし、みんなが勝ち負けで金を賭けていたのでゲームには参加しませんでした。だから学生時代は麻雀はやりませんでした。

  そのうち社会人になってからだんだん興味を持ち始め週に一、二回やるようになりました。それがいつのまに三回、四回と誘われるままにやる様になり、段々とその奥深さに面白さを感じてしまいました。しかし、やればやる程難しく上手な人が大勢いるのには驚かされました。麻雀のプロがいる事も分かりました。今日では女性のプロもいる様ですが・・・。会社の慰安旅行の時は、夕食後は必ずといって良い程皆で卓を囲む様になりました。しかし、いつも下手で負ける事が多かったのでした。下手の横好きというのでしょうか。仕事先、旅先等でも、見知らぬ所の雀荘でも初めての人達とも麻雀をやりました。知らない人達とやるのはとっても緊張するものでした。 

  麻雀の始まりは、その昔中国の宮廷の女官達の間で始まったと聞きました。

  先日、中国の北東部(旧満州)の延吉(吉林省の州都という所で、人口約五十万位、ちょうど船橋市位の所です)へ行った時、ちょっと雀荘を覗いて見ました。さすがに卓は囲みませんでした。もっとも言葉が出来ませんから。牌は日本のパイより約二倍位 大きいサイズで二個しか手の平に入らない程の大きさでした。いわゆる下駄牌というものです。

  年を重ね仕事も退き二十年位牌にさわりませんでしたが縁あって健康麻雀に参加させてもらって今日この頃、皆様方と卓を囲んで昔をなつかしく思いながら楽しんでいる次第です。一度で良いから、緑一色という役満をやって見たいものだと思っています。


        マージャンを始めた頃の思い出  


                                                                                 2015年12月

                                                                               寺田 年世


  物心ついた頃から 親戚が集まると大人達は麻雀をするという環境で私は育ちました。夢中になっている大人達を横目に早くごはんが食べたいなぁと思ったものです。

  結婚してから主人も加わり 親戚のみならず主人は友人を10人も連れてきては3日3晩徹夜麻雀をすることもあり、私は食事の支度で大変でした。ですからそれまでの私の麻雀に対する印象は決していいものではありませんでした。そんな私が麻雀の楽しさを知るようになったのは その環境の中で少しづつ教えてもらって仲間に入れるようになったからです。いつの間にか皆が集まるのが待ち遠しくなるまでになってしまいました。

  やがて子育てが忙しくなり、皆年をとり長い間麻雀から遠ざかっていました。

  6年前についのすみか印西に越してきて、お友達に誘ってもらい2年前にまた始めるまで実に3~40年のブランクです。私はこの麻雀〝飲まない、吸わない、賭けない〟という3大スローガンをとても気に入っています。まさに〝ふれあい健康麻雀〟だと信じています。下手ですが毎週楽しみにしています。 

  皆さん有難う。



      カンチャン上がりの君 


2016年2月

                                                                       中 山 茂


  昭和30年~40年にかけての世間は、まさに日本全国で高度成長の時代でした。仕事はやり切れない程あり、必ず毎日数時間の残業が当たり前の事でございました。そしてそんな時、仕事の疲れも何のその、好きな仲間同士が、ほゞ終電車になる頃まで、チー、 ポン、 ロン を繰り広げた日々でございました。

  或る時、珍らしくも、女性の人が参加して来ました。その方は我々には一寸と品がありそうな人に見え、いつものメンバーでは何か場ちがいの雰囲気でしたが、やり始めると、とても強気で、最初はビックリしました。また、未だその頃は、女性の方の参加は本当に珍しく、自ずと皆んなの目線が、彼女の麻雀に集まってしまい、さぞや、やりにくかった事だったと思います。でもその方は本当は私などよりも数段うまく、しかも大胆不敵、まともに闘えばとてもかなわない方でした。そして何故か パ萬、 パピン、 パソー、 の上りがとても好きで私は彼女のことをひそかに「穴の君」(失礼)と名付けていました。勿論、純チャン三シキやチャンターを私が振り込んで、大変痛い目に会った事が度々ありました。

  痛勤電車でよくお会いする様になり、親しくなって、喫茶店や、映画館などへよく一緒に行きました。今、その頃の事がとても懐かしく思い出されます。でもその君は不幸にも乳ガンを患い帰らぬ人となってしまいました。とても悲しかったです。今も私の心の中に強く焼き付いて残っています。

  昨今、健康マージャンが広く行われ、とても良い「知的頭脳スポーツ」になっています。手と頭を使い乍ら、人との交流も出来て、趣味としてはこれに勝るものはありません。「遊び脳」にして残りの人生を楽しみたいと思います。



 私がマージャンを始めたころ   

     

2016年5月

高橋 康夫


  私は、印西市社会福祉協議会印旛支部主催の健康麻雀教室にボランティアとして参加しています。そのご縁で植村さんと知り合い、この会に入りました。

  麻雀を始めたのは、やはり学生時代でした。文科系の部活動に入った自分は、部室で調べものをしたり、先輩から大学生活の説明を受けたりしたものでした。しかし、男子校出身だったのでなかなか先輩や同学年の人と打ち解けませんでした。私の大学は、当時としてはめずらしく昼夜開放講座制というシステムだったので、夜の講義やゼミがあるので時間があくと部室にいきました。そこで上級生が麻雀をしていました。メンバーが足りないと入れてもらったり、観戦したりしていると、あれほど怖かった先輩たちが大変やさしい人たちだとわかりました。それ以来、部活も楽しくなりました。

  当時は、完全先づけとアリアリルールの移行期で、事前に確認をしないと、箱テン300円のレートでも、学生食堂の夕飯が飛んで行ってしまうこともありました。

  いまの健康マージャンでは、それはありませんが、マージャン牌をかき回していると、懐かしい人たちの顔がほろ苦くおもいだします。


       マージャンを始めたころの思い出


            2016年7月

小川 雅之


  マージャンとの付き合いは、かれこれ50年ほどになる。覚え始めて、しばらくしてから大学時代の同じクラスのO君とたまたま、ある授業で席が隣り合った。O君は当時すでにマージャンの実力はかなり高いレベルにあった。90分の授業時間中、そのO君から授業そっちのけで、みっちりと点数の数え方、打つときの考え方等を懇切、丁寧に講義してもらった。役や点数の数え方を覚えると、それまでとは打ち方も変わり、俄然面白くなって、機会も増えた。

  社会人になってからも、当時(昭和40年代後半)は遊びといえばマージャンとボーリングくらいなもので、特にマージャンは機会が多かった。40歳頃まではそうした傾向にあったが、だんだんと遊びも多様化して若い人でマージャンをする人が少なくなり、機会もほとんどなくなってしまった。

  そんな折昨年市の広報で健康マージャンの記事を見て、是非とも参加したいと思い夫婦で参加させていただくことになりました。若いころの覚え始めの段階で基本的なことをしっかりと教えてくれたO君に感謝です。ただO君は8年ほど前に病を患い帰らぬ人となってしまい誠に残念である。

  これからもマージャンを通じて多くの人との交流を大切にしていきたいと思っています。


          マージャンへの思い

                                  

2016年8月

熊谷 勝夫


   〇学生時代

 部活のワンダーホーゲル部の仲間と麻雀を初心者同士でやり始めたのがきっかけでした。この時期はただ囲むだけで、授業が休講となると神田神保町の麻雀屋にかけこんだ日々でした。


   〇勤務時代

 昭和40年~50年代頃は、一日の勤務が終了すると、飲み屋に行くグループか、麻雀に行くグループかにはっきり分かれて、一時期派閥を形成してしまう程でした。

 年一度の会社後援の麻雀大会でホンイツ四暗刻で優勝及び社長特別賞をもらった事が良き思い出です。


   〇現 在

 社会福祉協議会の健康麻雀教室≪いには野教室・平賀学園台教室≫の2つでトレーナーとしてお手伝いさせて頂き、又昨年より いちプレーヤーとして当印西ふれあい健康マージャン教室に参加させて頂いております。

 この週3回の行事は私の生きがいとして、毎回楽しみに過ごしている次第です。 


            私  事               

2017年9月

瓦井 タミ


   私は主人と二人暮らしです。

朝食は主人一人で作って食べます。なぜ?私は夢の中にいます。昼食夕食はもちろん私が作ります。子供や友人達とのおしゃべりしながらの食事は楽しみの一つです。昔主人が退職後、私は勤めてましたので夕食を作ってくれました。「これ美味しいね」「テレビ見て作った」「また作ってね」そんな時もありました。昔のことです。先日、船橋の「梅の花」に行きました。とても美味しく参考になりました。

   私の戦争中の体験です。

父は自転車業を営んでました。車などない時代、得意先は農家の方が多いでした。そうしたこともあり食べ物には不自由せず助かりました。私は栃木県鹿沼市に生まれ育ちました。昭和二十年四月に女学校に「十二歳」入学しました。姉は三年生に在学していました。制服などなく母の着物で「上衣」「モンペ」でした。姉も同じでした。靴などもなく下駄でした。教科書・救急カバン・防空頭巾を持って自転車で通学しました。県道なのに砂利道で雨が降ると泥水にはねられました。学校に着くと門に兵隊さんが立ってました。校舎の半分は軍隊が利用し調理室や作法室など使用できませんでした。校舎に居るのは一年生だけで上級生は学徒動員で工場で働いていました。私達も勉強だけでなく田植えの時期は田植えをしました。「ヒル」がすごく吸いつかれたりしました。また、さつま芋の苗も植えました。校舎では兵隊さんが靴の修理や軍服の修理に忙しく騒音や臭いがありました。上等兵が下の兵を「ビンタ」するのも時々見ました。ある時、将校が白馬に乗って「サーベル」を差し校庭を進むのを見て子供心に「カッコエー」と思いました。

  その頃B29がよく飛んで来てそのつど防空壕に入り、飛び去ると家に帰りました。家の五㎞先に軍事工場があり、ある夜空爆がありました。ぞろぞろ皆逃げてきました。親が「子供たちで先に逃げろ!」と言いました。心配そうな私達に「心配するな、死ぬ時は皆一緒だ!」と言われ落ち着いた気持ちを今でも覚えています。どこをどう逃げたのか覚えていませんが家は焼けずに済みました。まもなく終戦になり、負けたくやしさよりB29の音を聞かなくなった方が嬉しかったように覚えています。戦争中に「ほしがりません勝つまでは」の言葉が今の私の中に生きている気もします。戦争はいやです。今の平和がいつまでもつづいてほしいです。物や食べ物何でも手に入る時代に生きられ幸せです。

元気で長生きしたいものです。

          短歌

     麻雀はついてる時もつかぬ時

     友と輪となり楽しいひととき