辛かった体験。そして希望へ。本当にあった話を聞き取り・投稿等のかたちで紹介します。

        人生の転機

                                       2023年3月18日

                                                 松宮 均


 私は昨年の3月末で、40年間の

教員生活に終止符を打ちました。

今は成田空港で保安検査員の仕事を

していますが、これまでの人生でい

くつかの転機がありました。

その中でも特に大きな出来事とし

て、50歳になったときに、ある大

病を患ったことが挙げられます。

   それは、がんです。


 その年の3月まで、私は印西市立

木下小学校に勤務していました。

その当時、6年生の担任として、か

わいい教え子達を卒業させてから、

私は4月から白井市立清水口小学校

というところに転勤しました。

またまた高学年の5年生の担任とな

り、春の陸上競技大会や運動会とい

う大きな行事をなんとか無事にこな

しました。


   実は4月の下旬ごろに

家庭訪問があり、自転車で各家庭を

回っていたところ下腹部にある異変

を感じました。

片方の睾丸が野球のボールくらいに

ふくれていて、自転車をこぐのにと

ても邪魔だったのです。

そのときは、どこかで知らぬ間にぶ

つけて、腫れあがったのだろうと思

っていました。ですが、睾丸の大き

さがソフトボールくらいになったあ

たりでさすがにこれはまずいと思

い、運動会の振替休業日の月曜日

に、松戸の泌尿器科で診てもら

いました。

 最初は「水が溜まっているみたい

ですが、念のためエコーを見ましょ

う。」ということでしたが、その後

医者の態度が急変して「すぐに胸の

レントゲンを撮りましょう。」とな

りました。

そして「大学病院の紹介状を書きま

すが、柏と千葉ならどちらがいいで

すか?」なんて聞かれたのです。

なにがなんだかわからないままに

「柏が近いので柏にします。」と答

えると、「それでは、東京慈恵会医

科大学附属柏病院の先生に紹介状を

書きますから、明日にでも必ず行っ

てください。」と言われました。

まさに青天の霹靂です。


   後でわかったことですが、肺に精

巣がんが転移している可能性があっ

たのです。


 翌日に年休を取って、東京慈恵会

医科大学附属柏病院に行って、早速

精密検査を受けました。

その結果、担当医の山口先生は、

次のように淡々と話したのです。

「できればすぐに入院してくださ

い。手術は早いほうがよいです。

うちの病院は、水曜日と金曜日が手

術日なのですが、3日後の金曜日に

手術ができますか?」

「ええっ、手術ですか? 

しかも3日後ですか? そんな急に

言われてもちょっと困ります。心の

準備というか、学校での予定もあり

ますので…。」 

「松宮さん。あなたの年齢からし

て、職場での立場や仕事の関係で大

きな穴をあけるといった心配がおあ

りなのはよくわかります。ですが、

ここで決断していただかないと後々

職場の皆さんやご家族に、2倍3倍

それ以上の負担や迷惑をかけること

になりますよ。」

山口先生は、若いけれどなかなか説

得力のある先生でした。


   私はこの時まで50年間手術や入

院という言葉とは無縁な人生を送っ

てきただけに、かなりのショックを

受けました。

どうやら事態は一刻の猶予もないよ

うでしたが、なんとか1週間の猶予

をもらい1カ月分のクラスや学年の

補習計画を作り、6月13日の1回

目の手術に備えました。

その計画を立てながら思ったのは、

自分の体のことよりもクラスの子供

達のことです。

4月5月と2カ月かけてせっかく学

級経営の土台を作り、これから自分

のクラスカラーに染め上げていくは

ずだったのに、他人の手に委ねるこ

とが無念でなりませんでした。

気になっている子供も、クラスに4

~5人はいたのです。

ですが、そこで妻が言った一言が、

自分の目を覚ましてくれました。

「あなたの代わりは、学校にいくら

でもいるけれど、我が家にはあなた

の変わりはいないの。小学3年生と

高校2年生の息子の父親は、あなた

だけですから。」 

一言も返す言葉がなく、素直に人生

初の入院、そして手術を受けること

にしました。

 1回目の手術と書いたのは、実は

腰の後ろあたりにある後腹膜のリン

パ節に、すでに15㎜程度のがん細

胞の転移が見られ、片方の睾丸を切

除して終わりではなかったのでし

た。ステージ2A~3のレベルで、

後で聞いた話ですが、手術をしても

5年生存率が40%なかったらしい

です。

その1回目の手術の後に、抗がん剤

治療を12週間実施し転移したがん

細胞を小さく固めます。そのまま手

術すると、がんが全身に散らばる可

能性があるらしいのです。

その後、2回目の手術でそいつを切

り取って終了というスケジュールを

説明されました。

約6カ月の療養休暇を勤務校に申請

し、腹をくくりました。


 さて、その片方の肥大化した睾丸

を切除する手術ですが、下半身麻酔

で行われ、妙な感覚だったことをよ

く覚えています。先生方は4~5人

のチームで、ベテランの教授の指導

の下で、山口先生が執刀医でした。

手術室には軽音楽が流れていて、

先生方の会話がよく聞こえてくるの

です。足の付け根を10cmほど切

開し、肥大化した睾丸を少しずつ引

きずり出します。

なんだかゴルフを楽しんでいるよう

な会話に聞こえました。

「そこのコース、ナ~イス。 

いいよ、いいよ。

そのままいってみよう。」

などと言いながら、2時間くらいの

手術が無事に終わりました。

その日の夜は、痛みで寝返りをうつ

のもやっとでした。

なかなか寝られず、2回ナースコー

ルしたほどです。

 次の日の朝ですが、足の感覚が戻

って一安心しました。傷口が痛み、

自力ではうまく立てません。尿道に

管を入れていたので、それも変な感

じでした。

午前中に骨の検査のため車椅子で移

動し、MRⅠの撮影をし、午後はア

イソトープで全身撮影をしまし

た。また次の日は、脳のCT検査を

しました。

これでもかというくらい検査をしま

したが、幸いなことに腰以外の場所

には転移は見られませんでした。


 手術から1週間たって抜糸をしま

した。

とは言っても糸を抜くのではなく、

ホチキスの針のようなものを抜いた

のです。全部で15個くらいでし

た。つまり15針程縫ったことにな

ります。

そして、いよいよ6月25日から抗

がん剤治療が始まりました。


 この抗がん剤治療は、とても辛か

ったです。

3週間の投薬+1週間のインターバ

ルを3クール繰り返しましたが、副

作用にやられて途中で逃げ出す患者

さん達がたくさんいるとのことでし

た。

自分も、見舞いに来てくれた学校の

同僚や、木下小学校の保護者、クラ

スの子供達が中心となって作ってく

れた千羽鶴やメッセージDVDなどに

励まされなんとかこらえることがで

きました。

もちろん家族の支えが一番です。

 さてこの抗がん剤ですが、自分の

場合は次の3つの薬品が投与されま

した。

( )の中は、主な副作用です。

ブレオマイシン(発熱と肺の機能低

下)、エトポシド(貧血・免疫低下

・出血傾向)、シスプラチン(吐き

気・腎障害)です。

あと、口内炎や抜け毛という副作用

もありました。そして、第1関門は

なんといってもカテーテルです。

首の横に麻酔をかけ、1cmほど切

開し、30㎝のカテーテルを心臓ま

で通します。そしてその周りを縫う

のです。

その麻酔の注射の激痛で、足がつり

そうになりました。

まあ、そのカテーテルを通して抗が

ん剤や生理食塩水利尿剤などを体内

に注入するので、当時は必要不可欠

のものでした。

今現在は、普通の点滴のように、肘

の内側から抗がん剤を注入できるら

しいと聞いて、医学の進歩はすごい

と思いました。

 6月25日、第1クールの抗がん

剤治療が始まりました。

この日から、毎日1500㎖以上の

水かお茶を飲みます。自分のイメー

ジですが、最初に強い抗がん剤を投

与して1週間かけて利尿剤や生理食

塩水で、体内の余分な抗がん剤を洗

い流して体外に出すという感じです。

この利尿剤の効果がすさまじく、

1日に5700㎖以上の尿を出させ

ます。30分ごとにトイレに駆け込

むなんてこともありました。

利尿剤、恐るべしです。

そして「吐き気」の洗礼を受けまし

た。ひどいときには、食事を運んで

くる台車のカラカラという音や、隣

のベッドのおじさんが箸箱から箸を

出すときのカシャカシャという音に

反応して吐く、ということもありま

した。ニオイでいうと、

ミートソース系にやられました。

ハンバーグなどは、退院後もしばら

くダメでした。

 2週目になって、2回目のブレオ

マイシン投与後、今度は「発熱」で

す。7月に入ったというのに寒気が

して、ガタガタ震えが止まらなかっ

たので湯たんぽを用意してもららい

ました。

しばらくすると、熱っぽくなって

39.5℃くらいまで上がり、今度はア

イスノンを借りました。

湯たんぽとアイスノンの併用だなん

て、看護師さんも大変です。

この頃から、朝と夜に毎日2回採血

をするようになりました。なぜな

ら、副作用で白血球や血小板が減少

し、免疫力の低下がわかるからで

す。

そして、白血球を増やすための注射

が、これまためっちゃ痛い。あまり

の痛さに

「先生、注射が痛くないとこありま

せんか?」と聞くと、

「では痛点の少ない肘の皮下にしま

しょう。」ということで、次から肘

にしてもらいました。

肩にするよりはマシでしたが、トー

タル33回の白血球増進の注射をし

ました。

実は、これが入院生活で非常に重要

なポイントになるのです。

 各クールの節目に外泊をしてリフ

レッシュするのですが、白血球や血

小板の値が低いとそれができなくな

ります。楽しみにしていた外泊がで

きなくなったときの絶望感は、例え

ようがありません。

ちなみに、白血球は輸血ができませ

ん。

骨髄で作られ、そのときに、腰のあ

たりが痛くなるということを、看護

師さんから教えてもらいました。

また、血小板は輸血ができるのです

が、色がクリーム色で、合わないと

アレルギー反応で全身がかゆくなる

ことがありました。7月6日には白

血球と血小板がかなり減少し、つい

に大部屋から個室へ移動となりまし

た。

なんと、1泊17,850円です。

エアーカーテンの空気清浄機の音が

かなりうるさいのですが、テレビが

見放題で、トイレもありました。

それまで居た大部屋は、いびき親

父、歯ぎしり親父、わがまま親

父、ケータイ親父、たんきり親

父、ルール無視親父など、なかなか

厳しい環境だったので、まるで天国

のようでした。この個室に入ったこ

ろに、髪の毛がバサバサと抜け始め

たのです。

清掃担当のおばさんが「髪の毛は、

床にどんどん落としちゃって大丈

夫だからね。また必ず生えてくる

よ。」と言って励ましてくれまし

た。

 そして第1クールの最終日に、

なんと歌手の一青窈さんが1階エン

トランスホールでゲリラライブをし

ていました。看護師さんに教えても

らって、点滴スタンドをゴロゴロさ

せながら行ってみると、200人位

の患者さんたちで大変なことになっ

ていました。

ベッドごと来ている人もたくさんい

て、皆きれいな歌声に感動している

ようでした。なんでも、一青窈さん

のお父さんも長期入院されていたら

しく、いろんな病院でこのような励

ましライブをよく行っているとのこ

とでした。キーボード1台のシンプ

ルな伴奏が一青窈さんの澄み渡る歌

声とマッチして、涙をこらえること

ができませんでした。

 3日間外泊し、その後2日間ほど

さまざまな検査をしてから、第2ク

ールの抗がん剤治療がまた始まりま

した。今回は第1クールの経験がも

のをいい、先が見通せる分だけ精神

的にも余裕がありました。ところ

が、もうそろそろ第2クール3週目

が終わろうというときに、何故か真

夜中どうにもならないくらい不安に

なり、かなりへこみました。

たくさん家から持ってきた本は吐き

気で読む気にもならず、大好きだっ

たテレビもつまらなくなり、まさに

どうやって時間を潰したらよいのか

わからなくなったのです。

そのときの日記にはこう書いてあり

ました。

「なんもなし。ひま。つまらない。

五目うどん(昼食)もまずかっ

た。」

そんな最大のピンチを救ってくれた

のが、5年生の教え子達が作ってく

れたビデオメッセージです。

同学年の先生方や教頭先生が撮影

・編集をしてくれたこのDVDは、自

分の1番の宝物です。

ビデオの最後でクラス全員が歌って

くれた「虹」という曲は、今聴いて

も胸にグッときます。

看護師さん達も「そのDVDをナース

センターで見せてもらってもいいで

すか?」と言って見てくれ、「泣き

ましたよ松宮先生。

あと1クール、頑張らないと

ね。」と励ましてくれました。


 そして、ついに抗がん剤治療最後

の第3クールが始まりました。季節

はお盆も過ぎて手賀沼花火大会が実

施されました。驚いたことに、空き

病室からきれいな花火を見ることが

でき、皆大喜びでした。

8月19日(日)には、24時間テ

レビ恒例のマラソンで萩本欽一さん

が最後まで走り切りました。

そのラストの姿を見ながら、自分の

置かれた今の状況と重ね合わせて、

涙を流したことをよく覚えていま

す。

9月1日(土)に最後のブレオマイ

シンが投与されました。

午後から熱が上がり始め、ピークの

39.2℃になった頃、木下小学校

の同学年だった先生方がお見舞いに

来てくれました。

実は、完成が遅れていた教え子の卒

業アルバムを持ってきてくれたので

す。この卒業アルバムが、実はこの

後訪れる最大のピンチを乗り越える

力になったのでした。

 第3クールの4週間目、階段を1

階分上がるのに10分もかかり、驚

くほど体力が落ちていました。

「老化は足から」とはよく言ったも

のです。でも、今週さえ乗り切れば

一時退院して家で過ごせる。

イヤホンをしないでテレビが見られ

る。

採血の注射を毎日されずに済む。

そう思っていました。

ところが、ついに試練がやってきた

のです。

 9月4日の朝のことです。

この日に採血をする人が新人らし

く、とてつもなく下手くそでした。

1回目の左手が失敗、2回目の右手

も失敗。3回目にしてやっと左手の

甲の血管に針を通すことができまし

た。両手の肘の内側は、○○患者の

ように青黒く変色しズキズキ痛み出

しています。

更に悪いことに、その血液検査の結

果、血小板の値が低くでてしまい、

楽しみにしていたその日の外泊がな

んと不可となりました。

もちろんその人のせいではないので

すが、目の前が真っ暗になりまし

た。ひょっとしたら、このまま一生

退院できないのではないかなんて、

本気で思ったりしたのです。

一晩中寝られずに廊下で頭を抱えて

いると、見回りの看護師さんが来

て、話し相手になってくれました。

その時に、あの卒業アルバムのこと

が話題に上がり、本当に救われまし

た。

看護師さん曰く「最後の最後にこら

えきれなくなって、リタイアしてし

まう患者さんが結構いるんですよ。

そうすると、今まで使っていた薬の

抗体ががん細胞にできているので、

次に再開するにしても、もっと強い

薬になるので大変なんです。松宮さ

んは、このアルバムの子供達のため

にも、あとちょっとだけ頑張れます

よね…。」

「はい。」と言うしかありませんで

した。そして、次の日の血液検査の

結果は、なんとか基準をクリアし、

週末の9月8日に待望の一時退院と

相成りました。

本当に、いろんな人たちの協力のお

かげで抗がん剤治療を乗り越えるこ

とができたのです。


 私は9月9日から10月28日ま

で、自宅療養をすることになりまし

た。この約1カ月半で、失った体力

と気力を回復し、10月31日の2

回目の後腹膜リンパ節郭清手術に備

えます。軽い運動や筋トレは許可が

出ているので、簡単なメニューを作

り毎日励むことにしました。特に散

歩やスクワットなど、下半身の強化

に力を入れました。

 そういえば、6月に入院したころ

は体重が63.5kgありましたが、9月

には53.4kgつまり10kgも落ちていま

した。

ただ、気になっていた腹囲はという

と、なんと6~7cmも減り、これは

とても嬉しかったです。

 9月5日に造影剤を投与して、

より精密にCT検査をしました。その

結果、抗がん剤治療の前に15mm

あったがん細胞が、7mmまで凝固

していることがわかりました。

かなり効果があったということで、

本当に嬉しかったです。

そして、一時退院の前に、担当医の

山口先生からこんな話がありまし

た。

「今後の治療ですが、選択肢が2つ

あります。

一つ目は、小さく凝固したがん細胞

を、リンパ管ごと手術で取り除くと

いう選択。

二つ目は、手術をせずにここで治療

を終了するという選択です。転移し

たがん細胞は、死滅している可能性

が高いですが、必ずしも100%そ

うだとは限りません。再発転移する

こともあります。

松宮さん、どうしますか?」

「えーと、えーと…。 その手術っ

て、どんな手術なんですか?」

「本院でも、年に5回あるかないか

の大手術になります。

(ちなみにある本で調べてわかった

ことなのですが、ここ慈恵会柏病院

の泌尿器科はがんの症例手術数でい

うと、日本で5本の指に入るらしい

です。) 

体の中心に大動脈が通っていて、

その周囲にはリンパ管がグルグルと

巻き付いています。

そのリンパ管を、がん細胞があるリ

ンパ節ごと全部はぎ取るのです。そ

のためにお腹を縦40cm、おへそ

から横に20cm切開し、内臓を

一旦全部外に出します。

リンパ管やリンパ節を全部はぎ取っ

たら、外に出した内臓を元の位置に

戻し、お腹を閉じます。

全部で、7~8時間くらいかかる予

定です。

他に質問はありますか?」

40cm切腹するとか、内臓を全部

外に出すとか、リンパ管を全部はぎ

取るとか……、

想像しただけでも吐き気がしまし

た。

「えーと、えーと…。 その手術っ

て、やっぱりやった方がいいんです

よね。」

「それは、松宮さんの判断に任せま

す。手術をすれば、精神的な不安は

軽減されると思います。ただ、手術

をしてもしなくても、再発転移する

可能性はあります。」

「えーと、えーと…。 いつまでに

返事をすればよいでしょうか?」

「できれば10月の中旬までにお願

いします。準備の都合もありますの

で。」

動揺してモジモジしていると、山口

先生が次のように言ってくれまし

た。

「もしよかったら、セカンドオピニ

オンの先生を紹介しますよ。」

「えーと、えーと…。 では、

そのセカンドオピニオンとやらを

お願いします。」

ということで、10月2日にセカン

ドオピニオンとして国立がんセンタ

ー東病院の田中先生に話を聞くこと

になりました。

 国立がんセンター東病院は、柏市

の柏の葉にあり、エントランスホー

ルなどはまるでホテルのように豪華

で、とても落ち着いた雰囲気でし

た。受付を済ませて、田中先生との

面談まで1時間ほど待つことにな

り、少し探検することにしまし

た。病棟の廊下は、意外なほど誰も

いなくて、とても静かです。まさに

ホテルそのものです。最上階には、

展望風呂のような大浴場があり、

こちらも誰もいませんでした。

時間があれば、ひとっ風呂いただき

たいところでしたが、時間になった

ので面談場所へ急いで移動しまし

た。

 田中先生は、山口先生と同じくら

いの年齢でとても若かったです。

自分のレントゲン写真を見ながら、

今までの治療の経緯を聞いてきまし

た。だいたい説明し終わると、

「それでは、松宮さんは、今後どう

するおつもりですか?」

と言われました。

「それを決めるために、ここに来た

んじゃろうが!」とは言えず、

「私は、手術をした方がよいのでは

ないかと思っています。万が一、

後々再発転移があったときに、あの

とき手術をしておけばよかったと後

悔をしたくないので。」と言いまし

た。

すると、田中先生は、

「そうですか。そうですよね。では

手術をするということで、山口先生

には私の方から連絡しておきます。

どうぞ、お大事に。」

これで、セカンドオピニオン終了で

す。時間にして、ものの15分ほど

でした。もっと詳しく話を聞くため

に、いっぱい質問を考えておけばよ

かったと思っても後の祭りです。

下世話な話ですが、2万円払ったの

で時給で言うと5千円ということ

に…。

まあ、ホテルのような病院の見学料

と、なんとなく手術の

後押しをしてもらったお礼というこ

とで、納得しました。


 さて、自宅療養の期間があっとい

う間に終わり、10月29日に、再

入院しました。

それまでに何日間かいろんな検査で

通院しましたが、足の付け根から採

血した動脈採血が一番痛かったで

す。

 そしてついに10月31日水曜日

に、「後腹膜リンパ節郭清手術」を

行いました。

朝8時15分から15時まで、約7

時間の大手術でした。

幸いなことに手術は成功し、術後は

ナースステーション後方の病室に入

りました。

 夜になって意識が戻りましたが、

鼻から入れたチューブと酸素マスク

が気になって、なかなか眠ることが

できません。催眠薬を飲んでも全く

効果がないのです。

自然と腹筋に力が入り、その度に傷

口が疼きました。同じ夢を何回も見

て、痛み止めを何回も要求しまし

た。

本当に看護師さんは大変だったろう

と思います。1時間おきに検温し、

血圧を測ります。熱は、39度台か

らなかなか下がらず、大変な一夜を

過ごしました。


 そして、次の日の夕方にベッド上

でポータブルのレントゲンを撮り、

やっとのことで鼻のチューブを外し

てもらいました。胃の中に意外なほ

ど長いチューブが入っていて、胆汁

が黒かったです。このチューブがな

くなったことで、腹筋の痛みは嘘の

ように全くなくなりました。

人間の体って、本当に不思議です。

胃の中に入った異物(チューブ)

を何とか外に出そうと、自分の意思

とは関係なく腹筋運動をさせる。

傷口が痛んでも、容赦なしです。

胃に溜まった胆汁を吸い出すために

どうしても必要なチューブではあり

ますが、何回このチューブを鼻から

引き抜こうと思ったかわかりませ

ん。

 術後2日目にして、また個室に移

動しました。この日の朝に、左手の

甲に入れていた点滴が外されまし

た。そのときに、しっかりと止血さ

れていなかったので、気が付いたと

きには布団が真っ赤に血染めされて

いました。

こちらも、助けられているとはい

え、動く自由を制限されていたの

で、すごく楽に寝返りがうてるよう

になってとても嬉しかったです。

3日目には久しぶりに体拭きをして

もらい、やっと術着から着替えるこ

とができました。

T字帯が情けないくらいグチャグチ

ャになっていました。

また、右手の点滴も外されました

が、水分や食べ物はまだ制限された

ままです。昼頃に撮ったレントゲン

の結果、少し胸に水が溜まっている

ということなので、また例の利尿剤

をかけることになりました。

10分に1回はトイレに駆け込みま

す。

 術後5日目にして、ようやく水か

お茶だったら摂取OKがでました。

6日目に撮ったレントゲンの結果、

「胸に少し影があるのでよく歩くよ

うに。」と言われました。

また食事は明日以降になるとも言わ

れました。

痛み止めの点滴は、機械で正確に落

としています。

なぜなら麻薬だからです。この痛み

止めの管が背中から取れ、お腹の管

(リンパ液を取る)も取れて、晴れ

て本当に自由の身となりました。

ただ管跡の穴から、結構な量のリン

パ液が漏れ、下着がビショビショに

なってしまいました。

 手術から1週間たった日の昼か

ら、ようやく流動食を食べることが

できました。

またこの日に48針中、約半分の

21針を2人の先生方で抜きまし

た。やはり、ちょっと大きめのホチ

キスの針みたいです。翌日に、残っ

た針も全部抜きましたが、記念に2

~3個もらいました。

そして、その日の昼食と夕食は三分

粥で、ようやく固形物を口にするこ

とができました。その頃に、山口先

生から次のような話がありました。



「松宮さん、術後の経過はだいぶ良

いみたいですね。おそらく、このま

ま何もなければ来週11月17日の

土曜日に、退院できると思います。

長い間よく耐えてこられました。

それで、今後のことをお話ししま

す。

これからの2年間は、90%の確率

で、再発の可能性があります。

なので、しばらく2週間おきに検査

をします。

血液検査とCT撮影です。その後3週

間おき~半年おき~そして1年おき

に検査をしていき、10年間再発転

移がなければ、完治となります。

それまでは気長に、ストレスをため

込まない生活を心がけてくださ

い。」

「退院」という言葉で舞い上がる気

持ちと、「90%の確率で再発」と

か「10年間で完治」という言葉で

落ち込む気持ちとが複雑に絡み合

い、しばらく放心状態となりまし

た。

ただ、11月17日という日は特別

な日なのでした。

この日は、自分の勤務校で、毎年行

われている「オータムコンサート」

という行事がある日だったのです。

全校児童と保護者が体育館に集ま

り、担任の先生が指揮をしてクラス

毎に合唱を発表するという一大イベ

ントです。まさかその日に退院でき

るなんて、正に奇跡としか言いよう

がありません。

 自分が入院していた6カ月間、

我が5年3組は、教務主任が担任を兼

務しており、今回のコンサートで

は、ゆずの「栄光の架橋」を歌うこ

とになっていました。

これは自分へのメッセージソングだ

と聞いていました。勤務校に、退院

する日がこの日になったということ

を伝えると、すかさず教頭先生から

折り返しの電話をもらいました。

「松宮先生、おめでとうございま

す。それでは、ひとつサプライズに

ご協力願います。

保護者席の後ろの方に特別席を用意

しておくので、当日5年3組が発表

するときに、内緒でそこに座ってく

ださい。発表が終わったらマイクを

渡しますので、子供達に一言でよい

ので、メッセージをお願いします。

復帰1発目のお仕事ですよ。」


 教頭先生の言うサプライズという

のは、自分の退院を子供達には内緒

にしておいて、5年3組の発表が終

わったときに、客席の後ろからマイ

クで、「先生は退院したぞー! 

みんなの歌声がしっかり届いたぞ

ー!」と、

叫んでほしいのだそうです。

なんだか想像しただけでも、ゾクゾ

クドキドキしました。これは、なん

としても11月17日に退院しなけ

ればなりません。

3日間のテスト外泊を経て、ついに

退院の日が来ました。半年間お世話

になった看護師さん達や掃除のおば

さん達にお礼を言い、会計を済ませ

ました。そして、そのまま勤務校の

コンサート会場である体育館に直行

したのです。


 小学校に早めに着いたので、誰も

いない5年3組の教室に行ってみま

した。

そのとき改めて「現場に復帰するの

だ」という実感が湧きました。

実際はしばらく自宅にて体力を回復

し、12月頃から午前中だけ教室の

後ろに座り、副担任という形で慣ら

し運転をします。

そこで、ちょっとだけ教室の黒板に

落書きをしました。

「みんな、励ましのDVDありがと

う。本当にうれしかった。完全復活

まではもう少し時間がかかるけど、

それまでおたがいにがんばろう!」

そして、ドキドキしながらサプライ

ズの会場へと急ぎました。

 会場である体育館は、全校児童と

保護者達でパンパンの満員でした。

なるべく目立たないように、特別席

に座りました。いよいよ5年3組の

発表です。まず、5人の代表の子供

達が呼びかけをしました。

「僕たちの担任の松宮先生は、今、

入院しています」

「手強い病気と、一生懸命に戦って

います」

「そんな先生の心に届くよう、この

曲をみんなで選びました」

「私達も一生懸命に歌います」

「どうぞ聴いてください。

『栄光への架橋』です」

まるで、テレビの学園ドラマのよう

なシーンを目の当たりにして、歌を

聴く前から涙があふれ出てきまし

た。ゆずの『栄光への架橋』。

この歌詞がまた泣かせてくれます。



「悔しくて眠れなかった夜があった   

恐くて震えていた夜があった

もう駄目だと全てが嫌になって逃げ

出そうとした時も

想い出せばこうしてたくさんの支え

の中で歩いて来た

悲しみや苦しみの先に それぞれの光

がある

さあ行こう 振り返らず走り出せば

いい

希望に満ちた空へ…」



   そうこうしているうちに、感動の

合唱が終わりました。拍手が鳴りや

む頃、教頭先生がニコニコしながら

マイクを渡してきました。私はマイ

クを握りしめ、こう叫びました。

「みんなの歌声、しっかり先生に届

いたよー。ありがとー!」

一瞬会場が静まり返り、そのあとど

よめきが起こりました。皆の視線が

自分に集まり、そして

「ウォーッ!」という声とともに

一部の子供達がこちらに向かってき

たのです。

先生方がそれを制止する姿が見えた

ので、自分と教頭先生は急いで体育

館の外に出ました。

まだコンサートは続くので、これ以

上の迷惑はかけられません。教頭先

生にお礼を言い、やむなく自宅へと

帰りました。

 後で聞いた話ですが、子供達のざ

わめきとソワソワが収まらず、その

後はコンサートどころではなかった

らしいです。少々サプライズが過ぎ

ました。そして、教室の黒板に書い

た自分の落書きは、しばらくの間、

永久保存版的な扱いになったそう

です。


 振り返ってみると、この6カ月の

間、何度となく考えたのが「なんで

こんな病気になっちまったんだろ

う」ということです。いろんな先生

や看護師さんに聞いても、はっきり

とした原因は不明らしいです。

ただ、精神的なストレスが大きいの

ではないかという話はよく聞きまし

た。

 当時の自分のストレスといえば、

教頭や校長になるための管理職試験

の勉強でした。

そもそも自分が教師を目指したの

は、子供達と一緒に勉強したり遊ん

だり、泣いたり笑ったりしたかった

からではないのか。子供達の成長を

見つけ、うまくいったら一緒に喜

び、うまくいかなかったら次は頑張

れと励ますためではなかったのか。

わからないことがわかった喜びや、

できないことができるようになった

喜びを体感させたかったからではな

いのか。教頭や校長になったら、

以上のような担任として味わえるお

もしろみや感動などが少なくなるに

違いない。

現に、初任者指導教員として担任を

外れた時などは、まるで腑抜けのよ

うになったではないか。

 もう、管理職試験の勉強などやっ

ている場合ではない。その時間を教

材研究にあてよう。残り少なくなっ

た教員生活を、学級担任として全う

しよう。そう決心しました。



 食べたいものは遠慮なく食べる。

飲みたいものも遠慮なく飲む。

買いたいものは買い後悔はしない。

行きたいところへ行き、やりたいこ

とはやる。

そう決心しました。

人生の大いなる転機です。

 それから15年経ちましたが、

幸いなことにがんの再発転移はな

く、完治というお墨付きをいただ

きました。

この拾われた命、

生かされた命を大切にし、

感謝の気持ちを忘れず

にこれから生きていこうと

思います。


   健康マージャンに感謝!!!

2023年1月2日


世の中の荒波は高い時があるものです。

私の息子は猛勉強の末、経験者採用枠の狭き門を突破し希望の公務員となりました。

ところがです。

その職場は半年間毎月100時間残業の繁忙期があるところで係長は精神的に追い詰められ病欠になるようなブラックなところでした。

息子は要領をのみ込み覚えるのに時間がかかる事と超天然なところがあるタイプだった為か、はじめから課長に目を付けられ毎日いじめを受けることになりました。

一人暮らしで長時間労働と陰湿ないじめが続きその年に病欠になってしまいました。

私たち家族は驚き、話を聞き、おいしいご飯を食べてもらうことで励ましました。

年が明け、息子は気を取り直し前向きな心で職場へ向かいました。

しかし、人の心は変わりません。度重なるいじめをするのでした。

弱くなった心の息子は明けたその年、再び病欠になってしまいました。

細面の優しい顔は、まん丸に膨れ表情が変わっていました。人が聞けばなんでそんな事まで気になるのかということまで気になるようになっていました。家族は寄り添いましたが変わることはありませんでした。もう退職し新しいところでやった方がいいとも話しました。未練があったのでしょうか息子は泣く泣く仕事に向かいました。

夏休み休暇がとれる時期を迎えていました。

息子はもうだめで再び病欠をとることを相談に来ました。私は入ったばかりで2年間で3度の病欠をとるとなると退職の道になると考えていました。今まで通り接するか、強く出るか。思案のしどころでした。

ふと、気晴らしにマージャンでもしようと持ち掛けました。ゲーム好きの息子は初めてのマージャンでしたが同意しました。マージャン大嫌いの妻はこんな時に何でマージャンなんかするのと険悪になりました。妻をなだめてなだめて何とか3人で2人に教えながら始めることになりました。

不思議なことに本当に不思議なことに息子が勝つのです。何回やっても何回やっても勝つのです。

何日やったでしょうか。やるたびに息子が勝つのです。何回やっても何回やっても勝つのです。

私はマージャンの色々な話をしました。若いころやったマージャンの話です。懐かしい話です。彼は聞き入りました。そして表情が変わり始めたのを悟り提案をしました。一人暮らしで追い詰められた息子は夜12時に帰るとコンビニご飯に1週間洗わない風呂に入るなどやっとのことで仕事に行ってる状況でしたので「妻を泊りで応援に行きご飯等の世話をする」というものでした。青天の霹靂の妻はまたいやいやをしましたが息子のためこれでだめなら諦めようと話し行くことになりました。

1か月が過ぎ2か月が過ぎ3か月になろうとしていました。

息子は正気を取り戻し休む事がなくなりました。家族にようやく笑顔の花が咲きました。本当に本当によかったです。

現在、元気に仕事に励み3度目の正月を迎えることになりました。

ちょうどコロナの時期と重なり暗い長いトンネルの中でもう出られないような心持ちの時でしたが、ふと、気晴らしに始めたマージャン。

変わるきっかけになった「神様のマージャン」でした。今でも息子は勝ち続けています。トータルでいうと何百万点プラスでしょうか。不思議不思議、涙涙のマージャンが続きます。

健康マージャンに感謝しています。

ブラボー!ブラボー!健康マージャン!